2017年6月14日水曜日

平成29年度 第2回 北方四島交流訪問事業(一般:択捉島)①

2017年6月8日~11日

平成29年度第2回北方四島交流訪問事業(一般:択捉)の団員の一人として参加しました
訪問団は北村信人氏を団長に60名(61名でしたがうち1名が欠席に)
元島民家族でない私は、択捉島はもちろん北方四島への訪問自体がはじめてです
根室市議会でも、参加したことの無い方を優先に応募します
今回の訪問団では別海・中標津・標津・羅臼のそれぞれの町議さんと松浦道議ふくめ2名の道議会議員さんも参加されていました
なお5月に実施された国後島への訪問では足立市議が参加されました

出発前日に北方四島交流センター(ニホロ)行われた「結団式」は、主に自己紹介含めた注意事項等を説明するオリエンテーションのような形です
また択捉島のプログラムで住民意見交換会でグループワークを行うことになっており、そのために各グループで「共同経済活動」をテーマにどういったことを択捉の住民の方と話し合うかについて、意見交換をおこないました
私たちのグループには、これまでに色丹島や旅行でもロシア極東地域を訪問したことのある北村団長が加わっていましたので、北村さんからロシアの人々の気質や風習などについて、大変興味深くお話を伺いました

出発の8日は朝から雨と風の吹く大変に寒い中、大勢の方が見送ってくださいました
しかし風が安全に航行できる基準を超えていたので、この日は根室沖に停泊し、天候の回復を待って、翌朝出発する予定であることが、伝えられました
択捉島でのプログラム日程は当初、9日(金)と10日(土)の2日間の予定でしたが、これにより10日(土)の1日間に短縮され、時間的にタイトなスケジュールとなりました
調整にあたった実行団体の北方四島交流北海道委員会の事務局の方々は大変な苦労をされたことと思います
さて、
根室港沖で停泊中にも船内での「研修」がおこなわれます
択捉島元島民の「語り部」松本侑三氏から、戦前の択捉島についての説明がされました
択捉島周辺の海域はシャチが常駐する世界的にも誇る生態系を保持しており、知床と同じ世界遺産や観光資源としてのポテンシャルを秘めていると言います
松本氏の出身地である「丁寧」は元々50戸程度の小さな集落ですが、旧日本海軍の航空隊約23,000人が常駐しており、にぎわっていたそうです
なお松本氏によると丁寧は「太平洋戦争」のはじまりと終わりの地といえるそうです
1941年12月、単冠湾に軍艦30隻が集結しました
その後、(戦争中の)4年間は平穏なくらしでした。学校やおまつり等でにぎわいをみせていたそうです
それがポツダム宣言受諾後の1945年8月18日以降、サハリンからやってきた旧ソ連軍は択捉島の留別から年萌へと旧日本軍を武装解除しながら侵攻しました
ソ連侵攻後は、地元住民を労務させてソ連人の生活基盤を作らせてから日本人を排除する、そのようなやり方に憤りを覚える、と松本氏は語ります
そして戦後70年以上経過し、今は故郷に行きたくてもいけない、自分たちの生活していたあとは全て壊されている
また道路なども整備されておらず、仮に飛行機で自由訪問が実現しても、行けない場所も多々あると言います
墓地の場所についても、すでに分からなくなっている場所もあり、GPSを使用する等してでも特定させていきたいと思いを語ります
「経済協力」と言いながら、その先に一体何があるのか? 自分たちの島でありながら、自由に行けない場所。自由に墓参をしたい。そうした思いを松本氏は語っておられました
語り部のあとは船内の研修プログラムとして
専門家交流として参加している社交ダンスクラブの方々を講師に、社交ダンスの練習
そして映画「ジョバンニの島」の上映が行われました
映画上映の間に、今回の訪問団最高齢の一人である元島民の長谷川ヨイ氏から当時のお話について伺いました
択捉島入里節の出身の長谷川氏は去年やこれまで訪問した故郷周辺の写真を見せながら、当時の様子や自由訪問等で参加した時の状況について説明します
当時は昆布等がとても採れ、自給自足で野菜なども作っていたそうです。1年に一度米や醤油、衣類、お菓子など生活必需品を大量に島外が仕入れると、それ以外にはお金を使わない生活です
終戦時は13歳だった長谷川さんは、何も困らない豊かな暮らしだったと当時を振り返ります
入里節の墓地は、現在は草木に覆われて探すのが大変に困難になっているのだそうです
写真を見ましたが、砂浜近くの背の高い草むらに覆われて「この草の向こうに墓があるよ」と言われても、ちょっと信じられません
また飛行機になったとしても、空港から5時間も6時間も舗装されていない道、道路と言えないような道を車で行く(ところによっては海岸の砂浜を走る)ような場所であり、「墓参が飛行機になったら私は絶対行かない!」とおっしゃってました
それでも、これまでの墓参や四島への訪問交流事業などを通じて、ロシアの方との交流の大切さを語っていました。また自分も根室のまちでロシアの方を見かけたら積極的に片言のロシア語で話かけに行っている、と。
「まずお互いにコミュニケーションをとって友達になっていかないと」と長谷川氏は言います「突然、行ったってうまくいかないよ」「一般の人が四島に行ける機会が少ない。人間同士が自由に行き来できるようにするのが大事だよ」と。
また「(島が返ってきても)ロシアの人に自分たちと同じ思いをさせたくない」とも言っていました

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